プロフィール

小太郎History

1958年とある駅前にあった質屋の末えっ子に生まれる。姉貴2・兄貴1の四人兄弟である。記憶にまったく無いが僕が生まれるまでは、相当羽振りが良かったらしい。そんな暮らしが災いしてか、親父は体を壊し入院生活を送ることになり店をたたむ。

僕が物心つく頃には、親戚を転々としその頃には親父の存在すら知らず、当時で言う「母子家庭」の環境でスクスク育った。そんなある日僕が10歳の夏引っ越して間がない長屋に見知らぬおじさんがやって来て僕にこう言った。「ゆうじ大きゅうなったのー」(大きくなったの意味)。なんじゃこのおっさんと思いながらもペコっと頭を下げた。

そしてその後、母親とわずかな会話を残して去って行った。「母ちゃん今のだれ?」すると母ちゃんがこう言った「親戚の伯父さんよ」。

それから二週間後、親戚に不幸があったと言う事で葬儀に参列。なんと二週間前長屋に来たおいさんの葬儀であった。その時感じたこと、「なんと親戚が多いんじゃの~」そして火葬場でお骨を拾う時に隣のおばさんがこう言った「ゆうちゃん、お父さんの骨ちゃんと拾ってあげてね」。

生まれて10年「母子家庭」の僕にはまったくピンとこなかった。またそれ以上考えるあたまも無かったし、「おやじ~っ」て号泣する気もなく、淡々と儀式を終えた。大きい存在である母に対して、あれこれ詮索するのもと子どもなりに気を遣い、親父であったおいさんのことは聞かないことにした。

義務教育課程から高校生活にかけて

小学校から中学校までは、野球が好きで白球を追いかけていた。いわゆる「野球少年」であった。憧れのプロ選手はいなかったがとにかく熱中した。

体罰が社会問題化している今、当時中学生だった僕の環境下では監督・諸先輩からの平手打ち、ケツバット(時には頭バット)などなど当たり前であった。

中二の頃野球ともうひとつ好きなものに出会えた。6歳年上の兄貴の影響もあってギターを手にすることになる。当時、吉田拓郎がスーパースターの階段を上り始めた頃だ。この時フォークソングに目覚める。

親しい友人が数人いて、拠点であったAくんの部屋に集まり、兄貴から譲り受けたヤマハ16ギターを持参しよく騒いだものだ。

この後、某公立の工業高校にギリギリで入学し、実にまじめな高校生活を送る。この頃、色んなタイプの友人と出会い、聴く音楽も洋楽が徐々に増えて行ったが、やはり根底はフォークであった。

高三の春、社会人のお兄様方が中心となり「フォーク村」が市内に結成され、友人のこねで初ステージに立つ。ハーモニカとギターの弾き語りである。当時の録音テープはいまだ健在である。

高校卒業後

卒業する頃には、なぜか学力優秀で首席で卒業する事になる。人生七不思議のひとつであろう。高校卒業後、県内の某大手企業の造船関連会社に入社するが当時の上司、先輩と折り合い悪く、一年足らずで退職する。世の厳しさを知りました。この後、2、3年は、色恋に目覚め、壮絶な体験をする。

23歳の秋、某自動車部品関連の会社に入社が決まり、おふくろを残して、県外に就職する。地元に企業進出することの条件もあり旅立つことにした。25歳まで寮生活を送るが、大変貴重な経験であった。”他人の飯を喰う”初めての経験であり、色んな面で親の有難さを痛切した。

25歳も終わる頃、約束通り地元に戻り、工場一期生として仕事に励むことになる。一方、私生活はアマチュアバンドに没頭、何故かエレキギターを肩から下げて、サイドギターを弾いてました。Fusion系でしたね。ナニワエキスプレス、カシオペア、プリズム等々よく聴かされてました。あっ県外就職してた時は、1時間弱で渋谷に行けたので、週末はよくライブハウスの「屋根裏」に行ってました。クロスウィンドウが大好きでした。

30歳前に結婚するも色んな面ですれ違いが生じ、お互い溝を埋められず離婚の道を選択する。いわゆるバツイチです。その後、今の奥さんと出会い二度目の結婚に踏み切る。奥さんもバツイチで色んな経験を乗り越えて来た強さに魅かれたのでしょう。3人の子どもに恵まれました。

娘は歌手を目指し上京中。長男は建設土木関係の仕事に携わりバイクに夢中。当然二人ともまだ独身。僕の友人の大半はマゴの写真の入った携帯を自慢げに見せつけますが、僕にはまだ先の話でしょう。

燃えていたサラリーマン時代

23歳で再就職した訳ですが、これも人生七不思議のひとつでトントン拍子にキャリアアップして行きました。品質管理業務、製造の技術系業務に携わり、それなりの地位を確保して来たのですが、45歳の頃、現代病に襲われましていわゆる「うつ病」です。

ストレスなんかあんまり感じた事は無かったのですが、突然体に異変を感じ始め、色んな病院、当然大学病院にも行き検査受けましたが、異常ナシの診断。最後に行った心療内科でうつ病とわかりました。当時は
「仮面うつ病」と言われてました。

当時、仕事を休むことすら出来ず、夜遅くまで開業している病院に通い、薬治療を続けました。症状はすぐに治まりましたが、薬とは縁が切れずに約7年間お世話になり完治しました。

今思えば45歳からのこの7年間が一番辛いサラリーマン生活でしたねー。自ら願っての降格人事それは辛いものでした。ただこの間、色んな企業人と接する機会も多く、優秀な方々と出会え、お話できた事はきっといい財産になると思ってます。

そして人生の転機

そして2013年春、大きな転機がやって来た。それは会社の合理化計画です。俗に言うリストラですね。とうとう来たかと言う思いでした。「この歳でな~」との思いと「やってみたい事あるしな~」との複雑な心境に思い切って奥さんに相談してみました。すると一言、「あなたが決めること」。

数日後、希望退職届を会社に提出し、32年間勤めた会社を後にした。自分の成長、家族の成長を今まで支えてくれた会社に感謝の思いでいっぱいです。そして今、まったく違う業種で起業を考えてます。覚悟を決めトコトンやりきりたいと。

そんなおじさんですが、よかったら応援して下さーい。僕も色んな情報を発信して行きます。最後まで読んで頂き、ありがとうございます。感謝致します。